哀しいことに 、なりたくなくっても
いつのまにか大人になってしまいます

ひそかにいだいていた進学の夢も
自堕落と、家の経済的理由であっさりあきらめ
ノーテンキな高校の3年間を過ごし
将来に漠然と不安をいだきながら
社会へ巣立っていった、というより
落っこちた、というのがボクの心境でした

寒さが残る 昭和41年 1966年の春・・・・


 就  職

ボクは成績もそんなに良くないくせに
のんびりしてて
就職先が決まったのは
クラスで最も遅いほうだった。
とにかく富山を出たかっただけで

何の会社かも理解せずに
朝倉商事 という会社に 決め
3月下旬に一緒に入社する K
高岡駅から夜行列車で大阪へ出発する。
駅には家族、友人、そしてホレていた C子
見送りに来てくれ、急に行くのがイヤになった。

< 体に気をつけて頑張ってください >
と言われ、思わず握手したのが
彼女に触れた最初で最後・・・・
よくわからない未練みたいのを残し

列車は定刻通り出発しちゃった18歳の春。

翌日、大阪本社で入社式。
ネクタイの製造、主に百貨店へ販売する
業界トップの企業であると説明があり
東京店商品課配属が正式決定。
東京店では初めてのデザイナー採用と聞き
不安がつのる・・・。

 研 修

大阪本社の企画室で2週間の研修を受ける。
ネクタイの図案の描き方のレクチャー。
テキスタイルは大嫌いなんだけど、仕方がない。
あとは掃除とタケシタ部長 の相手。
部長はボクの親父と同じ年だったけど
人種が違っていた。
< オシャレは女性化することヨ > って言い
いっつも小指を立て、内股で歩いている。

親父が見たら殴っていただろう。

スタイルが良く、晩年までオシャレだった。
あれが演技だったら立派なものだ。
 
その部長に何度かオカマ・バーへ連れていかれた。
修学旅行以外、県外へあまり出たことのないボクには
すげー カルチャー・ショック。
トイレに入ると天井から床まで総カガミ貼り
キラキラした迷宮のようで出るものも出ず
うっすらヒゲの浮いたママに手をにぎられ
< 可愛いけど アンタには無理よ >
って言われたけど、無理よ の意味がわからなかった。
 
お店の名前は 男子専科

デ ザ イ ナ ー ?

大阪から東京まで、初めての新幹線に
小さな希望と一緒に乗って
子供っぽく喜んでたまではよかった。

東京店の挨拶で学生服のボクたちを
今度、東京店に配属されたデザイナーの・・
と、ナカシマ店長が紹介しても
デザイナーってもののイメージとは
ずいぶんかけ離れた二人。
社員たちは変なものを見るような冷ややかな目

ボクもムチャクチャ恥ずかしかった。

押 し 入 れ デ ザ イ ナ ー

東京店は上野黒門町の商人宿を改造した建物。
デザイン室はきしむ階段を上がった2階奥
押し入れだった2帖ほどのスペース。
横に物干し場へ行く階段があった。
窓はなく、暗くって

夏場はとんでもなく暑い。
 
そんな中で K は紳士装身具担当になり
スミヨシ係長 の指導で順調なスタートを切ったが

ネクタイ担当にされたボクは
指導者がいなく放りっぱなし。

どうしていいかわからず
意味なくパターンみたいなものを描いてても
身が入らず、サボってばかり。
肩が触れるような狭い部屋で
イラだっていたのか K と殴り合いの
喧嘩も何度かした。
暇を持て余し、疎外感で悶々と半年過ごした頃
商品名の看板を書いてくれ、という依頼があった。
それがボクの仕事を創り出すきっかけになる?

昭和の子供たち・やよい町15番地