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ト ー チ ャ ン - 1 |
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静岡県掛川で、長男として生まれたトーチャン。
静岡で丁稚奉公していた15才の時
高岡へ居を移していた親元へ
働き手として呼び寄せられたが 横暴な父親との確執から
工場で大怪我を負ったのを機に
17才で家出、満蒙開拓青少年義勇軍に入り
満州、吉林省に渡ってしまう。
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義勇軍は、当時の国策による屯田兵で
満州の開拓と、開拓団の警護、辺境守備等を
任務としていた。
過酷な環境でも、トーチャンにはここが
自分の気性に合ったらしく
充実した青少年時代を、送っていたらしい。
歩哨に立っているトーチャンの写真
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ト ー チ ャ ン - 2 |
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やがて太平洋戦争が始まり
召集されて富山の連隊に入る。
その頃の写真
腕を組んだ草履ばきのトーチャンが真ん中に座り
両側が、小隊長と分隊長だと言ってた。
弱い者イジメする奴は許せん
クソ生意気な分隊長や、小隊長を
キサマ、弾は前からだけじゃないんだぞ!と
何度かブン殴ってやった
映画みたいなホラ吹いちゃって、と思っていたけど
トーチャンと、元戦友との会話を聞いていたら
どうもホラじゃないみたいで、軍隊でも素行が悪く
営倉にも何度か入っていたらしい。
義勇軍も含め、7 年の軍隊生活で
上等兵以上になれなかったのは、仕方がない
死ぬまで上等兵だった。
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ト ー チ ャ ン - 3 |
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軍での素行がたたってなのか
トーチャンは
地雷を持って敵戦車の下に潜り込み
自爆する訓練を富士山麓で受けて
千葉房総に配属、米軍の上陸を待った。
普通の真面目な戦友の多くは
南方戦線へ送られ
途上、船を沈められて
亡くなった人もずいぶんいたらしい。
中隊200名の写真を見ながら
こいつも、こいつも、と呟いていた。
運がいいのか、悪いのか
長い軍隊生活で一度も戦うことなく
敵の上陸を待っている間に
終戦となった。
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ト ー チ ャ ン - 4 |
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終戦が近い頃、叔父さんに赤紙がきて
富山の連隊に入營した早々
古参兵たちに呼び出された。
叔父さんは初年兵イジメ だと覚悟して行ったら
< 貴様はイッチャマさんと関係があるのか >
と聞かれ
< 自分の 兄であります >
オドオドして答えると
古参兵たちはニッコリ
< そーかぁ、お兄さんにはずいぶん お世話になった >
菓子を食え、タバコを吸えと歓待を受け
びっくりした。
トーチャンが亡くなった後
そんな話を叔父さんから聞いた
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ト ー チ ャ ン - 5 |
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昭和20年8月4日
トヤマは B29 の大空襲をうけ
95%を焼失し大変な惨状となった。
その直後、連隊の叔父さんの所へ
トーチャンがひょっこり顔を出し
無事を確認して帰っていったらしい。
叔父さんは房総の任地を勝手に離れて来た
トーチャンを心配したが
< かまわん > の一言だった
どうやって来たのか、帰ったのか・・・
これも、その時にいっしょに聞いた話。
戦後、トーチャンはトヤマへ戻るが
仕事が無いので仕方なく
元陸軍演習場だった立野が原の開拓村に入り
仕事で出かけた五箇山でカーチャンに出会う。
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ト ー チ ャ ン - 6 |
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トーチャンと、もっと話をすればよかった
自分の親が、どんな人間で、
どんな人生を送ってきたのか
もっと理解しようとする気持ちがあったらと
後悔しています。
17才で家を出
満州へ渡った、その時の気持は
想像するしかありません。
親を見限り、夢とか希望を持って
意外と清々とした気分だったのかも・・・
ボクよりズーッと影の濃い人間だった、
ってことは間違いないですね。
トーチャンには勝てないなぁ
今になってシミジミ思います。
同じ年頃のボクと、渡満正装のトーチャン
手に持っているのは鍬の柄です。
背景は茨城県日原の義勇軍訓練所。
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昭和の子供たち・やよい町15番地
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